日出藩日出(暘谷)城三ノ丸跡に、大正四年、大分県杵築市山香町の「馬上金山」の経営者であった成清博愛翁の別邸として建てられた的山荘。
日本の伝統的木造建築の粋をつくした桟瓦葺近代和風建築で国重要文化財にも指定されています。
そこで食事ができると聞き、早速行ってきました。
日出る海の城下町日出町。まるで昔にタイムスリップしたかのようなゆったりとした時間がそこには流れていました。


日出若宮八幡神社
天徳3年(959年)に、郡司であった清原高秀が八津島大明神(日出町豊岡)から二柱の神を勧請したことに始まり、翌天徳4年(960年)、大神郷司緒方惟季が山城国の石清水八幡から更に御分霊を勧請して社殿を創建したとされています。
江戸時代を通じ、日出藩主木下氏による篤い崇敬を受け、境内には歴代の藩主が建立寄進した石鳥居四基、石燈籠八基が所在し、旧日出領内(現日出町・杵築市山香町など)社寺の中でも突出した寄進数と規模を誇ります。
石鳥居や石燈籠に刻まれた銘文には、その藩主銘に「豊臣(豊冨)」の姓をみることができます。
史料から確認される豊臣姓は、天正14(1586)年から慶長19(1614)年にわたって、全国の相当数の大名衆などへ下賜されました。
大阪の陣(1614~1615)による豊臣宗家の滅亡後、豊臣姓の下賜及び使用は終焉を迎えますが、日出藩主木下氏は幕末に至るまで豊臣姓を使い続けており、若宮八幡神社においてこれを如実にみることができます。
歴代の日出藩主は、日出領内社寺に建立寄進した石鳥居・石燈籠をはじめ、藩主の墓所(松屋寺・横津神社「横津御廟」)や書画などにも、「豊臣(豊冨)」姓を用いています。
このことは単に日出藩主木下氏の歴史に留まるものではなく、「豊臣秀吉」「豊臣秀吉の支配体制」「大阪の陣」「徳川政権」など、日本史全体の事象に深く関連するものとして捉えられています。
日出町若宮八幡社神殿正面に立つ二層の楼門は、元禄16(1703)年、三代藩主・木下俊長建立寄進したもの。
日光東照宮陽明門の意匠を摸したともいわれ、日出町有形文化財に指定されています。
境内社として、「神明神社」「愛宕社」「天満社」「高良社」「金刀比羅社」などを祀っています。

的山荘
馬上金山(現・杵築市山香町)での金鉱石の採取成功により一躍富豪の仲間入りをした成清博愛が大正4(1915)年、日出に建築した邸宅です。
博愛が馬上金山に入山する際、「山を的てたい」と願いを込めてつけた雅号「的山」を取って、この邸宅は後に「的山荘」と呼ばれるようになりました。
昭和39(1964)年から成清家によって料亭として営業をはじめ、皇族方もたびたび訪れています。
平成22(2010)年に所有は日出町に移り、平成23(2011)年から指定管理者によって管理されています。



昼懐石「的山」
大分県は日出町にある「的山荘」で食事をした際に二階堂美術館へも足を運んでみました。 [sitecard subtitle=関連記事 url=https://kokorozashitakaku.com/2022/07/tekizanso[…]